雲流るる果てに 岡部幸雄引退式
2005年3月20日。この日一時代を築いた名ジョッキーが鞭を置いた。暖かい陽射しと、
眩しい笑顔に包まれた素敵な別れだった。
前日の予報では快晴で暖かくなると言っていたが朝から空は雲に覆われ肌寒い一日にな
った。ただそんな天候の中、中山競馬場はあきらかにいつもとは違った雰囲気を出していた。
そう、例えるならGTレースでも開催されるかのような空気。10時少し過ぎに競馬場へと着き
記念入場券を購入。そこにはすでに21388と刻まれていた。それはまだ1レースが終わった
ばかりだというのにすでに競馬場に2万人以上のファンがいる事を示していた。地下通路には
岡部幸雄の全GT勝利のパネルが飾られていた。その多さに改めてこのジョッキーの偉大さ
を知る。他にも等身大のパネルや、記念グッズを売る店頭に並ぶたくさんのファンの姿など、
いつもとは何もかもが違った。

そして驚いた事がもう一つ。この日のレーシングプログラムは岡部幸雄引退記念版だった。
しかしいつもレーシングプログラムが置いてある場所には一冊も見当たらない。正門まで行
ってみたがそこにも一冊たりともなかった。近くの職員に尋ねると「なければもうないです。」
と言われた。時計を見るとまだ10時20分を回った頃だった。今までレーシングプログラムが
手に入らなかった事などなかったからただ笑うしかなかった。
寒空の中次々とレースが行われる。昼休みにはメディアホールで岡部幸雄のトークショー
があった。4レースを見終えてから行ってみたが中に入るのがやっとで見えるのは人の頭だ
け。岡部の「お」の字も見えやしない(笑)人垣の後ろから隙間を見つけて覗きこめばスーツ
姿の岡部幸雄が少しだけ見えた。

この日のメーンレースは第54回スプリングステークス。場内はGT並みの混雑だった。た
だそこにいる誰もがこのスプリングステークスが目的ではなかった。もちろんこのレースもク
ラシックに向けて重要なレースだし、メンバーも素晴らしいものだった。だが今回だけは違う。
この次のレース、中山最終競争に岡部幸雄騎手引退記念が行われるのだから。
普通最終レースにもなればある程度人手は少なくなるものだ。メーンレースを見て帰ってし
まうファンが多々いるから。しかしこの日は帰るどころか逆に熱気を帯びていた。岡部幸雄記
念に出走する馬たちが返し馬に走っていく。俺も岡部との最後の勝負だ、と単勝一点勝負で
馬券を購入。
晩年は個人的にあまり信用できず、馬券はほとんど買わなかった。でもいなくなると寂しさ
は隠せない。新聞を見ても騎手の欄に岡部の名がなくなる訳だから。よく内枠に入った岡部
を「こりゃ揉まれて馬優先主義発動するから直線追わねぇぞ(笑)」なんて言いながら友人た
ちと盛り上がったものだ。それももうない。そんな事を考えているうちに岡部幸雄騎手引退記
念の発走時間になった。
ターフビジョンにスーツ姿の岡部が写し出される。その瞬間大歓声が上がる。画面の中の
岡部が発走を知らせるとファンファーレが鳴り響く。惜別のファンファーレが鳴り止むと場内は
拍手と歓声に包まれた。GTレースとなんら変わらない大歓声。いや、それ以上に魂のこもっ
た歓声だった。岡部幸雄の凄さを肌で感じた。この大歓声がどれほどのものだったかと言うと、
このレースを見事勝利した蛯名正義がレース後「あの歓声で絶対勝ってやろうと気合が入っ
た。」とコメントしていたほど。


岡部幸雄騎手引退記念の表彰式が始まる。プレゼンターとしてウイナーズサークルに岡部
が現れる。「岡部!」「お疲れ様!」と至る所から声援が飛ぶ。このレースを制した関係者には
記念品として岡部愛用の鞭がプレゼントされた。そして勝利ジョッキー蛯名とがっちり握手を交
わす。表情は晴れやかだった。そういえば表彰式も終わる頃、空にはさっきまでの灰色の雲は
なくなり、明るい陽射しが差し込んでいた。不思議だけどどこか当たり前のような気もした。
表彰式も終わり、引退セレモニーが行われるパドックへと向かうとそこは信じられない事態に
なっていた。たぶん競馬場の人口密度が一番高くなるのは有馬記念だろう。その有馬記念をも
凌ぐと思われる程の人だかり。混雑と言うよりは満員。前が見えないどころではなく身動きがと
れない。こんなの見たことも聞いたこともない。なんとか人ごみを掻き分けて少しでも人の少な
い方へと進む。そこから全体を見渡せば驚くしかなかった。スタンドの上の方まで全て人で埋
め尽くされていた。それはあまりの凄さに自然と笑みがこぼれるほど。


パドックにはセレモニー用の台座があり、司会の鈴木淑子さんと長岡一也さんが現れ引退
式は幕を明けた。主役の岡部幸雄が現れると場内から割れんばかりの大歓声と拍手が巻き
起こる。鈴木淑子さんが岡部と親交のあった吉永小百合さんからの手紙を読み上げる。その
後JRA高橋理事長から金杯が送られ花束贈呈へと移った。関東から柴田善臣騎手、関西か
らは松永幹騎手・・・次々と送られる花束を受け取りながらそのつど深々と頭を下げる岡部。
寡黙に38年間を駆け抜けた岡部の人柄がよくわかる。
花の15期生と言われた同期の伊藤正徳、柴田政人の両調教師が壇上に上がるとこれまで
以上に大きな声援が送られた。ファンもこの3人をよくわかっているのだろう。「こう見えても昔
は乗り役をやってました。」と伊藤正徳調教師が笑いを誘う。二人から花束を差し出され頭を下
げる岡部。3人とも晴れやかないい表情をしていた。同じ釜の飯を食べたこの3人だからこそわ
かり合えるものがあるのだろう。その後も各関係者から花束が贈呈される。そして最後に花束
を手に壇上へ上がったのは岡部幸雄一番のファンだと自負する、父の正一さんだった。「長い
間ご苦労さん。」と花束を差し出されると岡部はこれまで以上に深く頭を下げた。唇をかみしめ、
涙をこらえているようだった。


全ての花束贈呈が終わり岡部幸雄最後の挨拶が始まると場内は水を打ったように静まり返
る。痛いほどの静寂の中、岡部の声だけが響く。「これからは馬券も買います」と笑わせれば
場内は和んだがすぐに寂しさが大きくなった。謙虚なジョッキーらしく言葉数は少ないものの
その一言一言に重みと、そしてなにより騎手人生に悔いなしという思いが伝わってきた。「38
年の騎手人生、悔いはありません。本当にありがとうございました。」とファンに頭を下げると場
内からはその澄み切った青空に届くほどの拍手と歓声があがった。純粋にこの場にいれてよ
かったと思った。一体感が素晴らしかった。「岡部!ありがとう!」「お疲れ様!」「辞めないでく
れ!」たくさんの声援が飛ぶ。その拍手と歓声はいつまでも鳴り止まないのではとさえ思えた。

最後の挨拶が終わると奥から神輿を担ぐ後輩ジョッキー達が登場。拍手と歓声の場内から
笑い声が上がる。そこには武豊、横山典弘、田中勝春、そして負傷で入院中の後藤浩輝の姿
もある。躊躇するかに思えた岡部もすぐに神輿の上に乗った。そのままパドックを一周。危な
っかしそうに手を振る岡部はもちろん神輿を担ぐ後輩たち、そしてその場にいるファン・・・全て
が笑顔に包まれていた。


パドックを一周し、神輿から降りた岡部に感想を求めると「落ちないように必死でした。」と
笑顔で答える。武豊が「たくさん記録を破ってすいません。」と笑いをとる。神輿を発案した
横山典弘は控えめに「記録の方は豊にまかせて僕は56歳を抜けるようがんばります。」と
答える。最後に田中勝春が「岡部さんにいじめられた事は忘れません。」と言えば「僕も勝
春君にいじめられなければもう少しジョッキーを続けられました。」と返す。最後まで和やか
な、笑顔溢れるセレモニーだった。
パドックから去っていく岡部の後姿をファンの声が追いかける。至る所で「岡部!」と木霊す
る中、一人だけ「淑子!」と叫んでいたのは笑えたが(笑)

引退セレモニーが終わり、帰ろうとするとパドックに作られた特設ビジョンに岡部のVTRが流
れ出した。画面の中で名馬にまたがる岡部。俺の生まれる前から騎手だった岡部。「ゼロから
のスタート」と頭を丸めて復帰した岡部。タイキシャトルで悲願の海外GT制覇をし、レース後
一人検量室で涙を流した岡部。画面の中の岡部を見ながら空を仰げばそこには果てなく流れ
る雲があった。一つの時代が過ぎ去っていくように。
岡部幸雄
1948年10月31日生まれ
初勝利 1967年5月5日 ミスコロナ
通算重賞165勝
通算GT32勝
通算2943勝
2005年3月10日 引退
2005.3.20
BGM 『FINAL FANTASYXより 「親愛なる友へ」』 あず♪
![]()